『哭声/コクソン』

2016年の韓国映画

日本公開は翌年の3/11日です。約1年前ですね

感想書きますので、見てなくて、見たい人は、見ないほうがいいと思います!

下に予告YouTubeをリンクします。

 

youtu.be

 

 

 

 

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2/25にWOWOWで見ました。

哭声/コクソン』はすごいと話題になってたのは知っていて、結局見に行かなかったという映画です。基本的に自分は、したくてしなかったことが結構たくさんあります。*1

 

コクソンという村が舞台の映画です。

 

その村で連続殺人が文字通り連続して起こります。連続殺人が連続するっておかしいか。

いや、連続殺人が連続して起こる、が正しいか。見てみて確かめてください(自分もまた見たいです)

 

その連続殺人の犯人がわからない、ではなく、既にわかっていて

毒キノコを食べて頭がおかしくなって殺してしまったのだろうという発表があります。

ただ、残された謎があり例えば身体に発疹が出てから頭がおかしくなる、というのもあって村全体に不安が渦巻いていきます。

 

誰かが言います。

「あいつは最近来たが何しに来たんだ」「あの日本人が来てからおかしいぞ」「あの日本人がそもそもおかしいぞ」と。

 

その日本人が國村隼さん。

普通の村、コクソンでは普段起こらないことが起こって、なおかつ國村隼さんが演じる日本人は確かにおかしいんです。色々。

山中に一人でいてなんかしてるし、裸でふんどしだし、とにかく異質。

 

主人公は警察官です。

連続殺人が起こる前の村の感じと同様なのか、ゆったりとした人物です。

上に記した「日本人がおかしい」という噂も最初は耳を貸しません。

 

しかし娘に発疹ができます。普段と様子が違う。そこから真相を突き止めようと更に必死になります。

祈祷師に治療を頼んだり、日本人が何をしに来て何者なのかを突き止めようとしたり。

 

そこから色々あるんですが、

この映画、説明むずかしい。なんていえばいいんだろう。

 

うーんと、こう「1次情報」という観点からいうと、

「あの日本人が○○をしてた」という一番最初の現場を目撃した人がいるんです。

それはたしかにおかしい、というかあまり考えられない獣的な行動なんですが、その1次情報を伝え聞いた第3者が不安を募らせ、膨大になるスピード感。というのがすごくリアルでした。

 

その不安というのは村を仲間を守りたい、とか愛する人を守りたいとかからくるものなんですが、それが裏を返せば非常に攻撃的になっている、第3者が伝え聞いた情報なのにより恐ろしく感じてしまっている、という現実。

こういうのって事の大小は違えど、すごく身近にもある話です。どこにでもある話で、どこかで聞いたこともあるような・・・みたいな。

 

「あの映画酷かったよ。」と誰かに聞いた後日、
「あの映画は酷い映画だ。」と、観もせずにしたり顔で周囲に言いふらしてたら、しょうもない
でもそういうことって少なくない話かもと最近思う

 

長澤知之さんの「叩く」というタイトルの日記の一文です。

sp.augusta-mobile.com

 

まさに『哭声』の日本人に対する扱いはこの日記の内容に似たものがあるような気がします。

國村隼さん演じる日本人はおかしいという1次情報をもとに不安が募り、更に2次情報によりその1次情報を持ってきた人より不安になり怒る人が出て、攻撃的になる。

映画ではこの日本人は命を狙われます。

 

何が言いたいかって、 社会的に間違いを起こしたり、失敗したり、挫折している個人に対して、現場や事情をあまり知らぬまま、集団で追い打ちをかけるというか、ざまあみろってなるのが最近多すぎる気がして、あれ、品に欠けるし、危険な気がする
もちろん間違いにもよるから一概には言えないけど、少なくとも僕は見ず知らずの人に究極の悪態を使ってまで非道になる理由を持てない

 

これも同じ日記の引用です。

叩いたり、この危険な行為をする理由っていうのはやはり「何かを守るため」というのが大きいのかなと長澤知之さんのブログ、そして映画を見て、思いました。

 

あるいは守るために加え、「信じるもののため」とか。この信じるものっていうのは人であったり、法律、モラル、なにか哲学みたいなもの、それこそ信仰だったり、そもそも自分自身だったり色々。

それが傷つかない壊されないために究極の悪態をついてしまう。

 

この映画で言うと、傷つかない壊されないどころではなく、

死というものがあるので、攻撃的になる気持ちが分かる気がします。

 

でも「1次情報」がどういう現場でどういう情報源でどれくらいの信ぴょう性で、どういうやりとりで出たこと、そういうことをしっかり認識するのは大事だと改めて思いました。*2

 

その信ぴょう性がどれほどのものかわからない1次情報に踊らされて、それを伝え聞いた「第3者」が見てきたかのように代弁し、例えていうなら

それがマッチ1本の火なのにあぶないからと消火器ぶちまける、とか

料理中の包丁での切り傷で血が出たからと聞いて救急車呼ぶ、とか

台風の日に鶏の看板が飛んでいったのを笑ったら、誰かに当たって傷ついたかもしれないから笑ったらダメだよ、のような。

 

あなたが信じるものはそんなヤワなものなの、とか「自ら悪い方に想像力を働かせて内容も知らないのに勝手に薪をくべて」いない?って聞いてみたくなってしまう、

自分も同じもの信じて見てるけどそんな脆い強度じゃないと思うよ、むしろ守りたいものは自分?といったそういう事象が割と身近にもあるので、さらに自戒を込めようと思います。

 

映画の主人公の周りには母や妻、娘、祈祷師、日本人、謎の女、村の仲間とか色々出てくるんですが、結局そのどれもを信じ切れなかったゆえの末路なのかなと考えてしまいます。

 

このコクソンという映画が凄いのはもう一つあって、

國村隼さん演じる日本人がキリストを意味してるのではないのかという視点です。

映画冒頭で、聖書?福音書?の違いがよくわかってないので、同じだと思ってるんですが、その一節が引用されます。

映画の終盤でも同じ言葉、イエスの言葉が日本人の口から発せられます。

 

キリスト教徒が多いといわれる韓国で、こういうモチーフの映画。監督のキリスト教のとらえ方は全く知らないので、個人的にどういう意図かの解釈の余地があります。

そういう意味でも面白かった映画でした。

 

聖書のメタファーや引用って結構色々な映画などなどにあると思うんですが、そろそろ1度は読んでみないとダメかもなーと思っています。

長澤知之ソロ作品の例えば『舌』とか、ALの『地上の天国なソングライターの歌』とか、映画「沈黙」とかの理解がぐっと広がるような気がします。

*1:そんな人はたくさんいると思いますが・・・

*2:もうすぐ3.11です